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PKO問題が決着をみたあとの最大の政治的争点は「選挙制度改革」だった。その背景には、リクルート事件による政治腐敗根絶の世論の高まりがあり、それに応えるためというのが政府与党の名分であった。
すなわち、あいつぐ政治腐敗の温床は「自社なれあい五五年体制」にあり、これを根絶するには、政権交代可能な政治的緊張関係をつくらなければならない。それには小選挙区制の導入が最大の特効薬という文脈である。
しかしその実現には大いなる壁があった。自社ともに内心では「現状の中選挙区制のままがいい」という党内反対派を抱えていたからだ。社会党でも、「左派」は本音では「定数是正が先」という守旧派であった。
ここでも松原は真っ向から論陣をはった。松原は当選時からドイツ型の小選挙区・比例代表併用制の導入を提唱してきた「生まれつきの選挙制度改革論者」であった。
「新しい選挙制度に踏み込む中で政界再編なり野党共闘なりで、今の社会党の孤立状況を突破できる。中選挙区制のままで定数是正といっていたら完璧に取り残される」と主張。
これに対して党内左派からは「初めに政権獲得ありき。自民党との垣根を低くし、社会党の存在意義を失わせるものだ」(上田哲衆議院議員)と十字砲火をあびた。
それまでの中選挙区制をこわさないことには政権交代・政界再編は起こらないという立場では、小沢一郎も同じだった。
九二年の盛夏、松原はある人物の仲介で小沢に密かに会った。所は小沢の静養先の軽井沢。松原にとって、この時の出会いは、あれから一六年たった今でも、思い出深い人生最大の出来事のひとつでありつづけているという。
松原は率直な疑問をぶつけた。
「小沢さんは自民党の重鎮。このままじっとしていれば総理になれる。それなのになぜ政界再編をやろうとするのか」
これに対して小沢はこう答えた。「確かになろうと思ったらなれる。だが、この国を本当によくしないかぎり、総理になったところで意味がない」。
この一言を直接生まで聞いたことで、松原はしびれた。只者ではない。この男は間違いなく日本の政治を変えていくキーマンだ。そう共感した松原は、以来、小沢の動きを軸に物事を考えていく。
そして、その考えはいまも変わらない。
小沢から「社会党も政界再編に加わらないか」と誘われた松原は、「三段論法」でこう逆提案した。
政界再編には選挙制度を変えなければならない。選挙制度を変えるには社会党を変えなければならない。社会党を変えるには労働組合を変えなければならない。
小沢は即座に松原の提案をいれ、労組との仲介を依頼した。さっそく松原は旧知の連合事務局長の鷲尾鉄鋼労連委員長と語らって、工作を開始。そこで一ヵ月もおかず東京のホテルで、「小沢・労組トップ会談」がなった。
出席したのは、得本輝人自動車総連会長、芦田甚之助ゼンセン同盟会長、園木久治全電通(後のNTT→情報労連)委員長、そして鷲尾鉄鋼労連委員長。
このトップ会談は極秘裏のはずだったが、「信濃毎日」にすっぱぬかれる。一面の半分ほどを占める大きな記事のど真ん中に、
「小沢氏労組幹部と極秘会談。新党論にわかに緊張感。水面下で仲介社党若手議員」 の見出しが躍り、開襟シャツ姿の小沢一郎と松原の写真が掲載されていた。
当時連合会長は山岸章で、内心では「小選挙区制」には反対だった。「オレの知らんところで勝手にやりおって」と不快感を示したという。鷲尾は小沢の意をくみながら、山岸を説得、山岸・小沢会談をセット。
これによって山岸は「選挙制度改革論者」に改心し、連合全体が舵を切ったといわれている。松原が小沢に提案したように、労組が舵をきったことで社会党がかわり、ついに九三年の細川政権のときに、
選挙制度改革法案が成立、さらにそれから三年後の九六年、小選挙区・比例代表並立制の新制度下で始めての総選挙が実施されることになる。
政界再編は小選挙区制の導入という選挙制度改革がなければありえなかった。それは現在の「政権交代前夜」に至る二十年が証明している。したがって春秋の筆法をもってすれば、こうもいえるかも知れない。
松原が「小沢と労組トップとの月下氷人」の役回りを演じなかったら、今の「政治的大変」はなかったと。
●新党ブームのなかでシリウス始動
松原の仕掛けで「小沢・労組トップ会談」が成立、水面下で政界再編の動きが進み始めてからわずか二ヶ月後、この年最大の政治事件が起きた。
自民党のキングメーカー派閥・竹下派が、羽田派(小沢一郎、羽田孜、渡部恒三、奥田敬和ら衆院三五、参院九)と小渕派(小渕恵三、橋本龍太郎、梶山静六ら衆院三二、参院三四)に分裂したのである。
直接的引き金は、竹下派の会長で金庫番である金丸信が佐川急便から裏金五億円を受け取っていたことが発覚、議員辞任に追いこまれ、後継会長人事をめぐって内紛がおきたからだが、
底流には小沢の政界再編に対する積年の執念が作用していたことは間違いない。
この政治的重大事件と前後して、次の総選挙を射程に入れ、新党への動きがあちこちで出始めていた。その一つが、九二年一一月三日に設立された政策研究会「シリウス」だ。
会長は社民連代表の江田五月。設立趣意書はこう謳っていた。
「野党の連合や再編を目ざした結集の努力も、PKO国会と参院選を経て破綻状況にあると言わざるをえない。議会政治を機能させるべき政党が、その資格を喪失している。
国民の改革への渇望と現実政治の間の温度差はかつてないほど大きい。このような時に政治の新しい展望を拓くのは、政治家一人ひとりが政党の枠を超え、個人の決断と責任で行動を起こすことではないかと考える。」
名前は政策研究会だが、趣意書は妙に生臭い。政治再編へ噛もうという意図がすけてみえる。
働きかけをうけて、社会党から参加したのは、松原が牽引してきたニューウェーブの会、ANDのメンバーが中心だった。ちなみに、松原のほかには池田元久、伊東秀子、仙谷由人、筒井信隆、長谷百合子、細川律夫、
堀込征雄ら一〇名で、それ以外の社会党議員は前畑幸子ら一一名。残りは乾晴美ら連合参議院。そして社民連の江田五月、菅直人である。
シリウスに関しては、松原はニューウェーブの会やANDのように中心で牽引する役はあえて引き受けなかった。いわば「客分扱い」をつらぬいた。シリウスの動きを内心でこう読んでいたからだ。
代表は社民連の江田五月だが、実質の回しは菅直人。この五月に細川護煕が旗揚げした日本新党に触発されて既成政党内部からも新党の動きがはじまっていた。
細川の日本新党と結びつく流れを社民連・社会党の脱党グループからつくる。社民連という「小」が旗を振って社会党から若手を引き抜いて一緒にまとまった時の軸になろうとしているのではないか。
松原としては、シリウスに名前はつらねたものの、小所帯の社民連は気楽なもので、大所帯の社会党の中にいて動くのは「かなりしんどい」という感触を当初からいだいていた。
シリウスよりも心を動かされたのは、羽田孜からの直々の誘いだった。
羽田は、九二年末、小沢一郎と共に自民党竹下派を割り、新党の模索をはじめていた。羽田の行きつけの蕎麦屋に誘われ、そこで「社会党を出て一緒にやらないか」と打診をされたのである。
同年六月二三日に羽田孜が代表となって四四人で新生党が結成される以前のことである、(その二日前の六月二一日には武村正義が代表となって一〇人で「さきがけ」が結成される)。
間近にせまった選挙を担ってくれるのは社会党と労働組合しかない。社会党の看板なしでやれる自信はなかった。もう一回社会党で通って、状況を見定めてからでも間に合うのではないか。
松原の胸中を、そんな迷いが去来し、心引かれながらも、羽田の誘いを断った。結局松原は社会党公認で二回目の選挙を闘うことになった。
●九三年総選挙。得票を半減させて次々点に泣く
一九九三年六月一四日、野党から提案された内閣不信任案が小沢一郎ら「自民党内政治改革推進派」の賛成によって可決、宮沢首相は総選挙にうってでた。
新党ブームがおきたら、社会党の看板で選挙はやれないかもしれない。そんな松原の漠たる不安が的中した。七月一九日投票の結果は、日本新党三九(三九増)、新生党五五(二〇増)、さきがけ一三(三増)と
新党ブームの大風が吹き、そのあおりを社会党がひとり受け、一三七から七七と議席を半減させる歴史的敗北を喫したのである。
シリウスも新党へ飛躍する決断ができなかった。政界再編の好機だったにもかかわらず、代表の江田五月は「選挙資金のめどがたたなかったこと」を理由にルビコンを渡らなかった。
新党ブームに乗れなかったシリウスは衆院メンバー一六人のうち一〇名が落選。再選を果たしたのは、シリウスの言いだしっぺである社民連の江田と菅。社会党では土肥隆一などわずか四名だった。
もっともワリをくったのは、松原らニューウェーブの会、AND経由でシリウスに拠った「社会党改革派」であった。有権者からは「守旧」とみなされた本籍地・社会党で戦わざるをえず、
松原を含めその多くが枕をならべて討ち死にする結果となった。惨敗をうけてシリウスは総選挙後の八月二六日活動を休止する。
選挙中に松原は新党ブームの風をひしひしと感じていた。しかし、自分たちは社会党を変えようという改革派なのだから、新党ブームとつながっているはずだと勝手に思い込んでいた。
まさか自分のところに逆風が向かってくるなどとは考えだにしなかった。
松原の奈良全県区は定員五、社会党からは前回一三万余でトップ当選の松原、自民党からは奥野誠亮と田野瀬良太郎、公明からは森本晃司、共産から辻第一、新生党からは元自民の前田武志、日本新党から岡井康弘。
そして自民の公認争いに敗れた新人の高市早苗が無所属で出馬していた。
下馬評では票はへらすものの松原優勢、自民公認の二名と公明は有利、新生は元自民ということもあり優勢。自民の公認をとれなかった高市は不利といわれていた。
結果は以下のとおりであった。
高市早苗(無所属新)131,345
前田武志(新生前) 115,893
奥野誠亮(自民前) 113,254
森本晃司(公明前) 97,267
田野瀬良太郎(自民新)90,886
辻第一(共産前) 82,673
松原脩雄(社会前) 78,801
岡井康弘(日本新党新)32,380
戦前の予想をうらぎって高市がトップで当選、前回十三万票をとった松原は得票を半減させ、共産候補の後塵を拝して次々点に泣いた。自民の公認がとれず不利といわれた高市だが、
むしろ無所属であったことが幸いした。男でも相当体力と気力がないとやれない、上半身を街宣車から乗り出す暴走族まがいの「ハコノリ」をやり、演説はタカ派で旗幟鮮明で歯切れがよい。
若くて美人で女性よりも男性に人気がある。これが新党ブームと相乗効果を果たしたのである。日本新党の新人・岡井も立候補していたが、新党ブームの期待票を高市と岡井がわけたかっこうになった。
両者でわけあったその票は、おそらく前回土井ブームで松原をトップに押し上げた票でもあった。
選挙中盤で危機感をおぼえた松原選対からは「今は社会党でやっているけれども、当選したら社会党を軸に新党運動に参加します」と訴えろとの「指導」が入ったが、時すでに遅かった。
逆風の前には労働組合も部落解放同盟などの支援組織も力の発揮のしようがなかった。だったら旧来の組織に頼らずやればよかったのにという後悔が松原周辺にはあったが、すべて後の祭りだった。
●自さ社村山政権の二日前に社会党を離党
松原は地元奈良へ戻り、弁護士を続けながら、捲土重来をかけた浪人暮しがはじまった。いっぽうかつて松原が華々しく活躍していた永田町では大激変がおきていた。
九三年六月八日、日本新党の細川を首班に社会党も参加した非自民連合政権が成立。しかし、一年足らずで内輪もめがおきる。社会党が「仲間外れ」にされたと反発したことが遠因だが、
その不協和音を自民党につかれる。九四年六月二九日、社会党の党首・村山富市を首相にかつぐという奇策によって自民はまんまと政権を奪還するのである。
これを事前に知った松原は「改革を天秤にかけるとは政治的犯罪だ」と怒り心頭に発した。この奇襲作戦の仕掛け人は自民総裁の河野とさきがけ代表の武村とされ、
小沢が細川政権を成立させた離れ業を学習したものといわれている。小沢は少数派だがキャスティングボートをにぎる日本新党に首相を差し出すことで、五党による細川連立政権をつくりあげたが、
河野と武村は同じ手口で社会党に首相を差し出したのである。松原からすると、細川政権は悲劇に終わったものの政界再編への挑戦であったが、村山政権は反動の茶番劇でしかなかった。
これを仕組んだ人物も、積極的ではなくともそれを追認した人士も許せないと感じた。
もし松原が再選していて、ニューウェーブの会のメンバーの多くも落選せずにいたら、ニューウェーブの会が登場したときのように、社会党執行部にとことん抗ったことだろう。
そうすれば、自社さ政権は成立せず、政界再編はもっとはやく進んだかもしれない。しかし、大半が落選中の彼らには情報も入らず、抗うにも拠り所がなかった。
松原は、とにかくこれまでは「社会党を変えることで日本の政治を変える」という政治姿勢でやってきた。しかし、この一件で、その思いがプツンと切れた。
この党は完全につぶれる。村山委員長と一緒に墓場に行くのは嫌だ。そう決断した松原は村山政権成立の前日に、社会党奈良県本部に離党届を出した。
永田町では政治の流動化がさらに進み、「新・新党」結成の動きがはじまっていた。その一つに、超党派の若手による「有志集団Rリーグ」や「比較政治制度研究会」があった。
社会党離党後の松原もそこへ積極的に参加する。気分はさながら脱藩して横議横行する草莽の志士だった。有志集団Rリーグで「将来一緒の新党で働こう」とかたく誓いあったなかには、
松原と同じく落選し捲土重来を期す岩屋毅(自民→さきがけ)、比較政治制度研究会では公明党の平田米男がいた。平田とは松原が上京するおりには議員宿舎を「定宿」に提供してもらうほどの仲だった。
松原にいわせれば、岩屋は「ついに新・新党で名実ともの同志と呼べるようになった」、また平田については「政治観、市民感覚はほとんど一緒。違うのは宗教だけ」の盟友であった。
そして、九四年一二月、「自社さ」の奇襲戦法で権力からはじきとばされた新生、日本新党、民社、公明(一部参議院議員と自治体議員はのぞく)、そして自社さ政権からの「脱藩組」などによって
「新進党」が結成され、党首に海部俊樹、幹事長には小沢一郎が就任した。衆院一七八、参院三六、総勢二一四議席は、自民の衆参あわせた二九五につぐ大所帯だった。
マスコミからは「二大政党制近し」と期待の声が寄せられた。
松原は、横浜で開催された新進党結党大会に参加。政界では俗に「落選したらただ以下の人」といわれるが、松原の政治的去就が一般紙や写真週刊誌など硬軟さまざまなマスコミに取り上げられた。
それは、松原の「現役時代」の活躍ぶりの余韻のおかげであり、松原にはまだ期待値あったからだろう。
松原が新進党を選んだ理由は、ひとつには、安保防衛政策で松原の考えに近いからであった。前出の有志集団Rリーグの集まりで、
「私の目からみたら、少なくとも安全保障にかんする限り小沢一郎氏は社会主義者だ」といいはなって新進党の若手議員を驚かせたことでも松原のスタンスは明確だった。
理由はもう一つあった。すでにシリウスに拠ったときに理論誌創刊号に立場を表明していたが、二大政党制に対する松原なりの考え方の変化である。
当初松原は二大政党制といってもヨーロッパ型の「社民」対「保守」を志向していたが、そこからアメリカ型の「民主」対「共和」のような「傾向の違い」による二大政党制へスタンスを切り替えていた。
理念や政策の違いを明確化することよりも、政権交代可能な政治的緊張をつくることを優先させようというのである。
それが日本の政治状況にあっていると考えたからだ。その根拠としては、先の参院選で連合候補が惨敗、社民結集路線が破綻したこと。
そしてなによりも社民勢力の中核になるはずの日本社会党が、ヨーロッパ社民の現実主義路線に転換する気配がさらさらなく、いつまでも「何でも反対」の抵抗政党のままでいることに絶望したからであった。
●第三極新党にはくみせず
いっぽうで、社会党内では「第三の道」を模索する昔の仲間たちもいた。「自民と新進の保保二大政党制は危険である、リベラル勢力を結集した第三極が必要」とする考え方である。
松原は、これを手厳しく批判して、新進党への結集をこう呼びかけた。
「全員まとめて自滅するほかはない社会党の現状を突破する唯一の試みとして非常に積極的な意義を有していると思います。
しかし、その第三極新党が独立して存続しうるかという問いに対しては、私は否定せざるをえません。
その理由は、第一にあまりにその決断が遅きに失したため、社会党から飛び出した少数者の裸単騎で終わるだろうということ。
第二に、遅きに失した政治行動は、戦争の敗北局面において、優勢な敵勢力に竹ヤリをもって万歳突撃をすることに似て、全滅するという法則の適用をうける段階にいたっていると判断されること。
第三にかれらの掲げる理念、政策が明瞭でなく、目下の日本政治の対抗軸に無自覚であると思われることに求められます。」(九四年一一月)「なぜ前社会党議員が新・新党へいくのか」
大見得を切った松原だが、社会党に踏みとどまっているかつての「戦友」たちは、松原の脱党の呼びかけるに応えることなく、結局松原一人が「裸単騎」で新進党へ行き、
後にのべるように「討ち死に」することになったのは歴史の皮肉であった。(なお、第三極論については別の機会に詳しくふれる)
●新進党から入党拒絶、政治家を断念
さて、こうして新進党入りをきめた松原だが、思わぬしっぺがえしを受ける。当の新進党から入党を拒絶されたのである。
そこには長年来の地元の事情がからんでいた。ともに新進党へ合流した新生党の現職と公明党の現職がおり、ホンネをいうとこれ以上ライバルは増やしたくない。
いっぽう松原に見限られた社会党奈良県本部からも、地元新進党へ圧力がかかった。国政レベルでは対立していても、知事選や首長選挙などの地方選挙では保革相乗りが「常態」で、「貸し借り」の関係にある。
それが五五年体制の実態であり、それを改革しようという新進党も地元レベルになると古い体制を引き摺ったままだった。
「新しいはず」の新進党にとっても「古いまま」の社会党にとっても松原は「厄介者」であり「邪魔者」だったのである。そんな地元の裏事情があって、新進党への扉はピタリと閉まった状態がつづいたのである。
膠着状態を打開するために、新進党の事実上のトップである小沢一郎に直訴する手もあったが、松原はあえてしなかった。
どんな事情があるにせよ、とにかく地元にはいつくばって組織をつくって当選してこそ政治家というのが小沢の政治信条であることを松原は知っていたからだ。
甘えを許すような男ではない。松原も直訴するような無様な真似はしたくなかった。
この地元でのもつれは松原にとって限りなき消耗戦だった。なにしろラブコールを送った相手から袖にされたのである。こちらから縁切り状をたたきつけた社会党との軋轢の比ではなかった。
そんな消耗戦を闘う夫を見るに見かねてか、妻の真知子から「もう政治はやめてほしい」と懇願された。ここにいたって、松原は決断をした。
いくら理不尽でも地元のバックアップを得られないのは「自らの不徳のいたすところ」。
松原が先頭にたって推進してきた小選挙区・比例代表制という新制度下での初の総選挙に新党候補として立候補できないのはいかにも残念のきわみだが、あきらめよう、と。
そして、翌年一九九五年の奈良県知事選に無所属で出馬する。惨敗だった。もとより勝てる展望はなかったが、これで政治家としてのけじめをつけたかった。
松原にとってこれは「政治をおりる」ための儀式(イニシエーション)であった。松原の政治生命は五年たらず(現役としては三年)で終わった。
県知事選に敗れ政治をおりた翌年、新制度下で歴史的な選挙が行われ、松原を拒絶した新進党が一五六議席、また松原の社会党時代のかつての「戦友」たちが合流した第三極新党「民主党」が五二議席を獲得。
自民の二三九議席には及ばなかったが、政界再編の第二幕がはじまった。しかし、そこには松原の姿はなかった。
その後の松原の人生はけっして平坦ではなかった。おそらく政治家以後の松原の人生履歴だけで興味深いドキュメンタリーがかけそうだが、それは本連載の目的ではないので簡単な紹介にとどめる。
政治家をやめ弁護士稼業に復帰して1年後の一九九六年九月、スキルス性の胃癌が見つかり、即半分を切除し、ことなきを得た。
それから五年後の二〇〇一年一〇月、突然原因不明の高血圧症を発症。錯乱状態に陥り入院。なんとか回復するも、これが原因と思われる極度のうつ病にかかり仕事がまったく手に付かなくなる。
ついに、同年一一月、松原は今度は生活の糧でもあり天職とも自負してきた弁護士をやめる決断をする。
まだ大学進学を控えた子供が三人もいたが、「いざとなったら、自分もふくめて女房にくわせもらおう」と覚悟をきめた。
弁護士を廃業し、積年のあこがれの地である日本の歴史の原点ともいうべき奈良県明日香村に住居を移し転地療養につとめたところ、奇跡的に体調も精神も回復。二〇〇七年、晴れて弁護士稼業を再開した。
このように政治をおりた後の松原の人生は、政治家時代以上に「激変」の連続だった。ときに政治は人間をハイにもさせるがそれに倍するストレスも与える。
全力疾走した五年間がどこかで松原のその後の人生に影響をあたえたことはまちがいあるまい。
●いらちなやんちゃくれ政治家
松原の政治生命はわずか五年ほどしかなかった。にもかかわらず、その間に松原がなしとげたことは驚嘆に値する。
ニューウェーブの会にはじまって社会党離党・新進党に拒絶されるまでの軌跡は、今から振り返ると、百年に一度あるかないかの「政治的大変」のはじまりを刻み、今おきつつある政治的大変の震源地の一つとなった。
本連載の初回で松原をふくめた政界再編の仕掛け人たちを「鰻の稚魚」にたとえたが、松原は稚魚は稚魚でもマスコミの露出度、提案力などからいって「大器」を約束された稚魚であった。
それなのに稚魚のままで終わったことはいかにも惜しいと思われてならない。
ふみとどまって後退戦を戦いながら、機を見て反撃にでることも可能ではなかったか。政治流動の二十年をふりかえってみると、稚魚たちの幾尾かは、時間をかせぎその場をしのぎながら生き延び、
歴史的な政権交代前夜に立ち会おうとしている。
松原とともに「ニューウェーブの会の三羽烏」と呼ばれた仙谷由人も筒井信隆もしかり。松原同様、二度目の選挙は落選するが、三年の雌伏の間に第三極新党の民主党に合流、再選をはたし、
かつては保守の補完物にすぎないと批判・拒絶をしていた「新進党」や「自由党」を糾合し、いま参院第一党となった民主党でしかるべき地位をしめ、政権を奪い取ったあかつきには要職が約束されている。
松原が尊敬してやまない小沢一郎はすでに政治流動がはじまった時から「成魚」であったが、巨体の成魚のわりに身のこなしが敏捷で時間をかせぎその場をしのぎながら生き延びてきた。
小沢の身上は最後の徳俵でのねばり腰だ。新進党の分裂、自自公からの脱落。最近では自公与党と民主の大連立構想事件など、「もうこれで小沢の政治生命は終わりだ」と何度いわれたことか。それでもどっこい小沢は復活した。
なぜ松原は「戦友」の仙谷、筒井、さらには「師」とあおぐ小沢のように、時間をかせぎその場をしのげなかったのか。松原からは、こんな答えが返ってきた。
「そもそも僕には政治家として資質がかけている。人間類型でいえば僕は吉田松陰。高杉晋作は少数派として突進しながら最後は多数派になる。
それに対して吉田松陰はいいことは言ったけれど後ろには一つも政治がなかった。自分もそういうもんやったんかなあ」
これには若干の補足説明が必要だろう。実は松原がもっとも敬愛する歴史上の人物は高杉晋作である。次男には「晋仁郎」と命名したほどだ。
しかし、その高杉晋作たろうとしたものの、松原の中には政治音痴の「論客」吉田松陰がいて、これがじゃまをして政治にとって最も大切な「多数派」たりえなかったのが残念でならないといいたいのであろう。
松原が仕掛けたニューウェーブの会も、ANDも、シリウスも、結局政界再編の「奇兵隊」とはなりえなかった。
もうひとつ松原の総括は、政界再編のプロセスは読むことができたが、その速度を読み誤ったことだという。政治過程は行きつ戻りつしながら変化をしていくことは承知しているが、
そのスピードは松原が考えている以上に遅かったというのだ。
大阪で育った松原は自他共に認める「いらちなやんちゃくれ」である。信号が青になるのが待ちきれない、思いついたら溜め込まずに言葉にだし、即身体をうごかしている。
そんな松原にとっては、政治流動化の流れはもどかしいぐらい遅かったのだろう。
その意味ではそもそも政治家として「短命」が約束されていたのかもしれないが、逆に「いらちなやんちゃくれ」だからこそ、これまで記してきたようなことをわずか現役生活三年でできたのではなかろうか。
いま政権交代前夜にあって、私たちは政治的にどこから来たのか、そしてこれからどこへ行こうとしているのかを、しばし立ち止まって自問する時機にある。
そのとき、松原脩雄という「高杉晋作と吉田松陰」をあわせもった「いらちなやんちゃくれ政治家」が二十年ちかく前に刻んだ早すぎた軌跡は、今こそ参照されるべき一級の史料になるのではなかろうか。
衆議院副議長におさまっている横路孝弘に話のついでに松原の評価を聞いたことがある。「もったいない、急ぎすぎた。いまいれば力になるのに」というのが感想だった。
民主党前政調会長の仙谷由人と話したおりの松原評も同様であった。
ほとんどの有権者の脳裏からは松原脩雄は消えて久しいが、改革をめざして走ってきたかつての「仲間」の中には今なお深く刻まれているようだ。
あれ以来、松原は小沢一郎には会ったことはない。会おうと考えたこともなかった。しかし、この夏に開かれる小沢一郎の勉強会に顔を出すつもりだという。
軽井沢での「極秘会談」以来一六年ぶりの再会である。そのとき二人の間でどんな会話がかわされるのか、興味ぶかい。
ニューウェーブの会、AND、シリウス、新進党と松原脩雄が駆け抜けた五年間の軌跡を、小沢一郎がどう評価しているのかを、ぜひ知りたいものだ。